ゲームを遊ぶときに、
飽きたときのことを考えるようになったのは、いつ頃だろう
すくなくとも子どものころは違った
ゲームとは入り込むものだった
そこに描かれた世界に、比喩でなくどっぷりと浸かる。一体となる
操作される主人公と自分が限りなく接近して、コントローラーを握ったまま体全体を揺り動かした、あのころ
今思い返せば身もだえするような恥ずかしい脳内妄想を膨らませ、
少ない知識から見繕ったかっこよさを、これでもかと詰め込んだ名前を主人公に与える
遊んでる最中はその世界以外のことなど浮かびもせず
親に勉強を催促されると、ひどく苛立つ
あれはきっと遊びを中断することが嫌だったのではなく、
妄想を現実に書き換えられる、その残酷さが嫌だったのだ
だが今や自分のゲームに対する姿勢はあのときとはちがう
効率を考えるようになり、リスクを管理するようになり、
飽きたあとを想像するようになった
ネットにおいて誰かと感覚を共有するためのツールとなり、
二次創作を眺めて楽しむために遊ぶという逆転が起こり
会話の空白を埋めるための話の種となった
ゲームを遊ぶ理由を求めるようになった
あのころ、自分はゲームを遊ぶためにゲームを遊んでいた
もう二度とあの場所へは戻れそうにない
王者のエリマキでセンサー発動した理由もわからない