2013/09/02 “自分と誰かとネトゲと正義”

どうも筆がのらない。
というよりは集中ができない、というのが正しい。
物語と向き合う姿勢が崩れている。散漫になっている。
この状態でなにか書いたとして、自分の考えなど物語に貼り付けられないだろう。
こういうときは一週間ほど何もせずに過ごすのがよいと対処療法として知っているのだが、一つこの状態を赤裸々に書き記しておこうと思う
おそらくこれもまた出力に一種だから、ここに書き残したとして、定義としてあながちはずれではないはずだ。

このような状態になると何もかもがはかどらない。作業や勉強はもとより、読書もゲームもただ『進めているだけ』という酷い有様となる。
内実がまるで伴わないのだ。これではハリボテを組み上げているのと変わりない。
まともになったときに振り返り、組み上げたそれを見て、恥として崩すのがオチだ。

これが自分の血肉の問題なのか、精神の問題なのかと考えると、恐らくは、精神を形作る血肉の問題となる気がする。要するに健康が崩れて思考が鈍っているのだ。
ありふれた問題。しかも原因には心当たりがある。最近巷で話題の例のネトゲだ。
あれはゲーム性についてはブラウザゲームとしてはマシというだけでクソの極みだが、ある種のコミュニティに属すための手形としてみると良く出来ているシロモノだとおもう。
ようするにアレも、ネットにおいて共通の話題を得るためのコミュニケーションツールなのだ。内容は実際のところ、あまり関係がない。最低限遊べる仕様と拡張性だけあれば十分。話題を広げるために存分にキャラクターを増やして、時代に要請されるガワだけおさえて、センスと運に左右されるストーリー部分はユーザーの想像力に外注する、というわけだ。非常にコスパがいい。
その考えでゆくと、アレはああ見えて任天堂の『どうぶつの森』の後追いといえるのだろう。普遍性を廃してネットの文法で書き出すと『どうぶつの森』はああなるのだ。

くだらないとは思わないが、この傾向は自分としては気に入らない。
自分の言葉で語らずにあるコンテンツを盾にして、自分のものでないかのように言葉を発することを正当化しているからだろうか。
それとも数年も持たずにコンテンツが崩壊したとき、彼らがそそくさとまた別のものに乗り換えて行く姿があまりにも惨めだからだろうか。
いずれにせよ、自己をいかに消滅させるかが重視されるネットの空間において(注:たぶんこの傾向は日本だけだと思う)、彼らはいつ虚しさを覚えるのだろうか。
それとも今なお感じていて、それを忘れるために遮二無二自分でない誰かを仮想し、その口を借りたような気になって言葉を発しているのだろうか。

ツイッターなどで愚かさを発露するひとを例にして、それが極端な例であるということにも気づかずに、ネットで自己を主張することを馬鹿にし続けるひとたちが多いことも、どこかつながっているように思われる。
現実で駆動する己がいかに感じるか、いかに思うか、よりも。どう思われるか、どう思われたいか、いかに誰にも思われないか、いかに自分を誰でもないものにするか。
己を発する人をいかに馬鹿にするか、いかに名誉を剥奪するかに目を光らせるひとばかりなのも、関係はあるのだろう。
ネットは寛容でないと誰かが書いているのをみた記憶があるが、そうではない。かれらは楽しんでいる。だれもかれもが自分と同じように平均的に無価値であるという主義を押し付けることを楽しんでいる。アメリカが正義の戦争をするように。

とにかく、今はあのゲームのせいで体調を崩している。
“歴史という試み”という面でもあのゲームは語る事ができるし、その点において価値あるものだと思っているので、今回のこのテキストは少々公平性にかけているかもしれない。
けれど、とにかく体調がわるいのだ、気分が悪い。まともな添削もできそうにない。気晴らしにものを書いてだれかに罵られるのもそれはそれで一興だと思えるくらいには。

しかし考えてみればこのテキストだってしまいには誰でもない誰かの書いたものということになるのだろう。
まあそうだったとしても構わない。『混沌の迷宮的結合』はのぞむところだ。矛盾はひとの身にある限り消すべきものではなく、最後の瞬間まで付き合うべきものなのだから。