2013/08/21 “クラス:リアル”

はじめに言っておくけれど、押井守監督の映画、『Avalon』について語ろうと言うわけではない。
関連がないというわけではないけれど、それほどは連絡していないと思う。

まず、現実について語るには、このサイトはテキストで構成されているということを改めて言っておかなければならない。
だからこれから語る事は、正確には現実についてではない。現実とテキストの、テキスト側から見た断絶についてだ。
当たり前のことだけれど、テキストはテキストについてしか語りえない。
不可能性定理なんてものを引き合いにだすまでもない、誰もが言葉にするまでもなく体験していることだからだ。

海の向こうの二本の塔が崩れ落ちた。
持ち上がった海があらゆるものを手繰り寄せた。
あれらの映像をテレビで、YouTubeで、溢れるメディアのどこかで参照したひとなら誰もが気付くことだ。

でもそんな大仰なものを引き合いに出すまでもない。
たしかにあれは多くの人に影響するものだったから、漠然と感じていたことをはっきりと突きつけられた気分になったけれど、
ミクロな視点なら今この瞬間にだって誰かが打ちのめされているはずだ。
ぼくのように。

テキストの世界。
いま、ぼくはこの世界で遊んでいる。
テキストで語られる言葉が、現実の一動作、たとえばペンを机に転がすというつまらない事象にすら、はっきり劣ると言うことに打ちのめされて、みっともなく逃亡している。
これはとんでもない絶望だ。
そんな事言ったって、現実もまたテキストに過ぎないかもしれない、とぼくは強がってみせたけれど、主体たるぼくはそう言いながら感づいてしまっている。
現実は確かにあるのだ。それを疑うことは出来る、馬鹿にすることも中傷することだって許されている。
けれどそれらには現実があるということに対して何の効力も持たない。
赤子を見つめる親のまなざしよりもぞっとするやさしさでもって、現実はテキストたるぼくを睥睨している。逃げ道を塞ぎ、そうでないなら影のようによりそう。

現実の運動。現実のスタンドアローンな記憶。現実の言葉繰り。そして健康。
それらはいっそ暴力的なまでにぼくの前に立ちふさがる。そして自分と言うものの性能をこれ以上ないくらい正確に読み取ってゆく。

ぼくらはその絶望を忘れることすら現実に許されている。
そして、それが無意味だと言うことも、しつこいくらい現実は現実でもって反復して教えてくれる。忘れるたびに思い出す。

ぼくらはテキストの中にいる守られたものなのではなく、ありとあらゆることが起こりうる場所に居ると言うことを。
あらゆるものはだれかを見捨て、驚くくらい残酷になり、嘘をつき、踏みにじる事ができるということを。
それらに対して、ぼくらは自分の手に負えない、自分と同じ名前をした、見覚えのない血肉を動かすことでしか対応できないと言うことを。
大人になったぼくはときどきわすれそうになる。
だからもう忘れないようにこうして記述しておかなければならない。

ここは現実だ。君はキーボードをタイプしている。脳には過去あったパターンと似た電気信号が走っていて、そして、それだけだ。
それ以上のことは何も起きていない。特に君が期待するようなことは。
気が済んだのなら、さっさと自分の血肉をモノにしたまえ。
生きのびるために。